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あるちゅはいま日記

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行人塚

いよいよ大河ドラマ「真田丸」が始まりましたね。
我が家は地デジNHKが映らない、いまだ地デジ難民、でこの人気番組も見ることはないのであろう。
嬬恋村の「真田道」大笹宿のはずれ、抜け道の碑と同じ場所に「行人塚」がある。
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「この小塚は伝承に依りますと戦国時代大阪城攻防夏の陣の頃(1615年)と伝えられ名将真田幸村の第二婦人と言ふ方が大戸経由にて當地大笹宿(大篠村)を通り上田城へ向ふ途中善光寺橋に差し掛かり丸木の一本橋に足が滑り川に転落水死され土地の住民により此の所に埋葬さたと伝えられて居ります。伝説によれば妊婦風であったとの事で人柄については懐中物の書類等で判明したのではないかと言はれて居ります。以下略」
大坂夏の陣に敗れて戦死した幸村、幸村の妻たちも徳川方の追っ手から逃れようとしていたのかもわからない。
このあたりで転落して水死するような大きな川は吾妻川しかない、丸木橋をわたるなんてまさに抜け道、隠密の急ぎ旅であったに違いない。
そして、その名も善光寺橋、大きなおなかを抱えて「仏の道」をひたすら進んでいたに違いない。
涙がにじんでくるような伝説だ。
所で幸村の第二婦人は誰だったのかと、ひも解いてみれば...なんと正室に側室が次から次へと。
まず正室は越前城主大谷刑部小輔吉継の娘、竹林院。
側室は真田家の家臣堀田作兵衛興重の娘、幸村の最初の妻とも言われている。
次の側室、同じく真田家の家臣高科内記の娘。
その次の側室、豊臣秀吉の甥・秀次の次女、隆清院。
誰が第二婦人かさっぱりわからん。
正室の竹林院は幸村の死後30年間静かに暮らしたということだ。
側室の隆清院は豊臣秀吉の姉瑞龍院のもとに身を寄せたとのこと。
残る側室たちの後は不詳。
そして、この他にも幸村には何人かの側室が居たと考えられている。
当時も今も人気絶頂の幸村だ。
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by hanaha09 | 2016-01-11 15:42 | 田舎暮らし | Comments(0)
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