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あるちゅはいま日記

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長野原に押し出した天明泥流

天明3年8月の浅間山大噴火の終焉には鬼押し出し溶岩が流出した。
この熔岩は土石なだれを引き起こし、浅間北麓に流れ下った。
鎌原村をはじめ多くの村々を押し流し、吾妻川に流れ込んだ。
火石(熱熔岩)を含んだ大量の土砂は泥流となり、あちこちで土石ダムを造り、それが壊され川沿いの集落、畑を襲い流れ下った。
嬬恋村の下流にあたる長野原も例外ではなかった。
集落は壊滅状態、およそ200名の里人が犠牲になったと伝えられている。
現在の長野原の街並みの西、上流側に坪井村(現在の長野原町大津)があった。
ここには武田一族に仕えた小林一族が住み着いていた。
助右衛門と名乗り、約200年間この地で酒造業や金融業を営み土地の分限者として栄えたという。
助右衛門の酒造米は、須賀尾峠を越えて遠く高崎方面から駄馬によって運ばれ、連日数十頭の荷駄が往来したという。
長さ20間(36m)の酒蔵が2棟も立ち並ぶ大醸造元であったようだ。
浅間山北麓から18km余りにあった、この酒蔵も天明泥流にあっという間に押し流されてしまった。
2002年に長野原中央小学校の建設に伴う発掘で蔵の礎石が見つかった。
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このあたりの標高は640m、北側を流れる吾妻川の川底は600m。
40mを超す、津波のような泥流が押し寄せたと考えられる。
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赤線より下は泥流の下だった。
吾妻川の川底付近に降りていくと切通にはこんな堆積層が。
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「天明泥流」の残していったものに違いない。
「解体新書」や「蘭学事始」で有名な杉田玄白が残した「後見草(のちみぐさ)」には、助右衛門についてこう記されている。
「坪井と名付し所あり。その村に助右衛門と云ふ男あり。此男元来家富眷属(一族、従者)多く慈悲深き聞こえ有り。・・・長さ二十間余の酒蔵二棟立並べ、・・・かかる災難に逢ひながら一家合わせて九十余人、不残後の山に遁れ壱人も横死するなかりし・・・」
ここにも大切な戒めが残されていた。
by hanaha09 | 2016-01-06 14:31 | 田舎暮らし | Comments(0)
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