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あるちゅはいま日記

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真田忍者

天下の要塞ともいわれた頑強な岩櫃城はいかに真田昌幸の手に落ちたか...
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永禄六年、齋藤憲広が立て籠もる岩櫃城は、正面からの攻略はほぼ不可能と考えられていた。
主・武田信玄より吾妻地方の攻略を命じられた真田幸隆は、謀略によって城を奪う事にした。
齋藤家の一族や重臣・海野幸光や輝幸兄弟を次々と仲間へと寝返らせていきながら、真田幸隆は齋藤憲広に和睦を申し込む。
そして、配下の忍者である角田新右衛門を忍び込ませた。
斉藤憲広は真田氏への攻撃を決意、攻撃に際しての合図を準備していることを知ることとなる。
新右衛門はその情報を手土産に、真田幸隆の本陣へと駆け込んだ、「城に火を放つので、それを合図に攻め込み下され」と真田幸隆に伝えた。
真田昌幸はこの時点で金十両を角田新右衛門に与え、さらに憲広を討ち取った時には知行地までを与えるとの約束をしたという。
かくして、難攻不落の岩櫃城は真田幸隆の謀略により陥落、斉藤憲広は越後に逃げ延びた。
真田幸隆は吾妻路を広く支配する礎となった。
戦国時代の越前国の武将、朝倉宗滴の戦陣訓にはこうある。
「敵の戦術戦略を知ることが大切だ。敵方のものに代物(金銭や黄金)をやると、ありのまま知らせてくれる。こっそりとやるのであるから、表向きの人々は知らないで済む。名将というものは、こういうことをするヒトのことだ。」
真田幸隆自身が忍者だったのだ。
これが戦国時代だったんでしょうね。
by hanaha09 | 2015-11-11 21:42 | 田舎暮らし | Comments(0)
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