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あるちゅはいま日記

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ペリーの見た日本人

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アメリカよりペリーが浦賀にやってきたのが嘉永6年6月3日(新暦で1853年7月8日)。
煙突から黙々と黒煙を噴出し波風をものともせずに突き進む蒸気船の威力に日本人は驚愕した
当時の日本の千石船は200トンほど、旗艦「サスケハナ」は3,824トン排水トン、比べ物にならない大きさだ。
巨大黒船と大砲の威力をバックに、開国を求めたアメリカ的脅迫外交使節団だった。
そして、ペリーが書き残している日本人。

「日本人の並外れた好奇心には驚かされる。わが国の独創的な発明品の数々を展示すると、彼らはあの手この手で飽くなき好奇心を満足させようとした。日本人にとっては、どの展示品もこの上なく珍しかったに違いないが、それをこと細かに観察するだけでは気がすまず、士官や乗組員らの後をついてまわり、機会さえあれば衣服に触ってみようとする」

「乗艦を許された人々も同じように詮索好きで、近づけるところなら隅々までのぞき込み、あちこちの寸法を測ったり、目に触れるものはなんでもかんでも独特の流儀で写生したりする」
日本人の好奇心と見られたが、実は発明品の技術を盗もうとしたのだ。

「読み書きが普及しており、見聞を得ることに熱心である。・・・彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、我々も多くの質問を受けた」

「長崎のオランダ人から得た彼らの知識は、実物を見たこともない鉄道や電信、銅版写真、ペキサン式大砲、汽船などに及び、それを当然のように語った。またヨーロッパの戦争、アメリカの革命、ワシントンやボナパルト(ナポレオン)についても的確に語った」

江戸幕府の鎖国時代にあっても世界の情勢、近代技術につき広範囲な情報を持っていたのだ。
その源には当時50%を越えるといわれた識字率、鎖国の状況ならではの日本人の考案した独自技術、この基礎があってからこそペリーの持ち込んだ発明品の技術を盗むことができたのだ。
ペリー来航の2ヶ月後には洋式大型軍艦の建造に着手し、翌年には完成させている。
また、蒸気機関車の模型も安政2年(1855年)には走らせることに成功しているのだ。
諸外国が日本を植民地化することはできないと考えた理由の一つともいわれている。
by hanaha09 | 2015-02-17 21:03 | 田舎暮らし | Comments(0)
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