この冬一番の寒波が襲ってきた。
寒い日には丸まって寝てやり過ごせば良い。
氷河期を生き延びてきた小さな動物「ヤマネ」の教えだ。
こんな日はまたまた上信民話集、源頼朝巻狩の巻。
「運動会で赤勝て白勝てってはちまきをして競争するだんべぇ。これにはちゃんと訳があるんだなぁ。
源平の合戦と言って、天下分目のすごい戦いがあったんだと。その時にそれぞれ源氏は白で平家は赤の旗印で戦った事から、競争は赤白に分かれて戦うようになったんだと。
嬬恋村はなぁ、その時の戦いに敗れて逃げてきた、木曽義仲の残党とそれを追って来た、将軍源頼朝との話が今も地名や昔話になって残っているんだなぁ。
まだ村の名前もねえ遠い昔になぁ、ここは三原野って呼ばれていたんだと。今の三原じやあねえんだ。浅間山の麓の六里が原と長野原と河原湯の三つの原で三原野っていったんだと。また浅間山の麓なんで三原野を浅間野とも呼んでいたんだと。
わしらの昔の者は、この浅間野で牧場の馬を育てていたんだと。
源平の合戦も終わり、木曽義仲の残党がふるさとの信州へ落ちのびようとして、この浅間野にもいっペえ逃げて来たんだと。
将軍源頼朝も千人の武士を連れ、その残党を追って、ここででっけえ巻狩をしたんだと。その巻狩には何百人もの百姓が勢子としておてんまに駆り出されたんだと。
残党を探すのと食料確保の為に浅間山の六里が原で一月も二月も巻狩をしたんだと。
巻狩は、獣や烏を追い出す者、逃げねえようにな網をはる者、馬に乗って弓矢で射つ者とてんでに役割を決めて「わぁわぁ。」と狩をしたんだと。将軍はこの巻狩を砦のある見晴らしの良い山から眺め、桟敷を打って号令をかけたんだと。だからこの山を桟敷山と呼ぶようになったんだと。
それから巻狩の間に将軍は、家来の腕のなまるのを心配して吾妻山の大岩に沢向こうの遠くから弓を射る遠矢をさせたんだと。岩を的にしたんでこの大岩を的岩と呼ぶようになったんだと。
(この後、馬小屋を作った大厩・今の大前、大厩から六里ヶ原に通う道は馬踏道、将軍の寝泊まりした御 所平、草津出温泉に入った御座の湯等々あちこちの名前の由来が出てくる)
長い巻狩を終えて、将軍は鎌倉へ帰って行ったんだと。
木曽義仲の残党はその巻狩に追われ、散りじりばらばらになったけれども、またいつの日か木曽家の復活を願って武術に励んでいたんだと。」
浅間山の麓は昔から熱かった。