ポンペイに住む多くの市民はベスビオ火山にはどうも無頓着であった。
せいぜいのところ酒神バッカスの住む緑の山としか思っていなかった。
温暖な気候の中、山の頂まで野ぶどうが茂りその香りに満ち溢れんばかりであったようだ。
といって、ベスビオを好んで壁画のテーマにすることもなかった。
紀元79年、このベスビオは市民の信望を裏切り家もろとも2000年に渡り埋没させてしまったのだ。
その被災の程度は手の施しようがなく、再建はおろか放棄せざるを得なかった。
忘れ去られていたポンペイが光を浴びたのが18世紀になってから。
枯れた井戸を掘り下げようとした農民がなにやら古い時代の美しい白大理石の柱を見つけたことに始まる。
宝石、金貨などを目当てにした盗掘、離宮建築用の石材を求めた侵略者の発掘などなど不幸な時代を経て本格的な調査発掘が始められたのが19世紀も終わり。
現在までにポンペイのおよそ8割が発掘され、古代ローマ時代のあふれるばかりににぎやかな溌剌とした市民の生活が垣間見られることとなった。
ポンペイはその城砦内の狭い範囲にあらゆる栄華の縮図があった。
「輝く商店、宮殿、浴場、市場、劇場や闘技場...市民の活動、腐敗、精美、悪徳に古代ローマ帝国の一大モデルが見られるのである」、とエドワード・リットン(ポンペイ最後の日を書いた小説家)が述べている。
ポンペイ市の人口は円形闘技場の収容能力から2万人程度といわれている。
選挙で選ばれた公職者は無報酬で街の運営、整備に参画し市民の生活をいかに快適に、楽しくするかに腐心していた。
上下水道、石畳の舗装路そして一段と高くなった歩道、公共広場、外科医に肉屋パン屋に居酒屋、金銀細工師、ガラス細工師...このとき日本は弥生時代であった。
その中でも大衆によって大事にされたのが公衆浴場。
温浴、冷浴、サウナ、休憩室を設け、午前中に仕事を終えた午後にはポンペイ市民は集い、語り、くつろいでいた。
そして一番の人気が円形闘技場といわれている。
剣闘士同士や人間対猛獣の残虐な死闘が繰り広げられていたようだ。
野外劇場での演劇には熱意がうかがわれず公演があったかどうかもあやしそうだ。
ポンペイ式住居は道路に面して貸し店舗、台所、使用人の部屋、そして中心部に広い吹き抜けの中庭、居間、寝室。
中庭にはギリシャ風の彫像、壁には神話をモチーフにした大壁画が鮮やかなポンペイレッドで描かれた。
食事は中庭に面した居間で寝そべって食べた。
富裕階級ではその欲望はとどまることはなくインド、紅海へと上等な飲食物を求めた。
地下室にはぶどう酒をいっぱいつめたアンフォラ(陶器製のぶどう酒容器)が積みかねられていた。
ポンペイ市の繁栄の理由は...
緑のベスビオ山山腹でのぶどう栽培によるぶどう酒の輸出。
ローマ帝国の拡張とともに販路は絶え間なく広がった。
当時のワインの消費量は一日一人当たり1から5リットルとも推測されている。
それに海で取れる魚の魚醤、秋田のしょっつる汁。
さまざまな交易品の中継点、国際都市貿易港でもあった。
多くの商人、船乗り、富豪が集まり、またローマ時代のおおらかな性風土もありポンペイはまさに快楽都市でもあった。
娼婦館にも一般家庭にも多くの鮮やかな男女の交わりの壁画が残されている。
足ることを知らぬ欲望の限りを求めた贖罪が天変地異を招いたのかもわからない、という人々もいる。
なんとも好奇心をくすぐる廃墟のようであります。