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あるちゅはいま日記

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鎌原村探索の続き

「天明3年8月5日、浅間山の噴火は頂点を迎えつつあった。
真夜中の八つ時(午前0時)からは土蔵が壊れるばかりの揺れが続いた。
土蔵の中に逃げ込んだ村人たちは恐怖に震えながら一心に念仏を唱えていた。
すでに二晩も一睡もできずにみんなくたくたに疲れきっていた。
長い長い夜の明けた青空の下、おそるおそる蔵の外へ出るとあたり一面焼け石がごろごろしていた。
村の中心を流れる用水路が土砂で埋まり泥水があふれ出ていた。
浅間山を眺めてみると火の玉の混じった黒煙を噴き上げる勢いは衰えず、てっぺんからはなにやら黒いものが流れ出してきているのが見えた。
若衆を中心に総出で用水さらいが始まった。
半時ほどで用水は以前の清水によみがえり、女衆は朝餉の支度を始めたのであった。
そんな中、真田からの荷物が続々と到着し、馬方たちは握り飯をほうばった後、あわただしく浅間山を避けて狩宿方面に馬を進めていった。
女衆、年寄りを中心に村人たちは小高い丘の上の観音堂に集まりひたすら祈祷を続けていた。
そんな中昼四つ時(午前10時)、浅間山から吹き飛ばされるような熱風が吹いてきた、着物も焼け焦げるような熱さであった。
その後、耳をつんざくような大音響とともにお山が大爆発を起こした。
砂や石が振ってきた、そして今まで聞いたこともないような異様な音が聞こえてきた。
「ヒッシオワチワチ、ヒッシオヒッシオワチワチ」、見ると浅間山が見えない、ただただ天にも届くような黒い大きな塊がこちらへやってくる。
「てーへんだあ、逃げろ!逃げろ!」と村中は大混乱。
しばらくして、観音堂に逃げ込んだ若衆の一人が堂に通じる石段を指差していた。
そこには信じられないものがあった。
50段ほどあった石段が15段しかない。
向こう一面は土砂、焼け石、木の幹や枝で埋め尽くされ鎌原村は消えてなくなっていた。」

残された93名の村人たちは代官所、村の有力者の援助の下、3ヵ月後には生存者の中から再婚縁組を行い復興への基盤とした。
生活基盤としては宿場町再生のために中央に南北に走る用水路をつくりその両側に道路、道路に面して各間口10間(約18メートル)ずつ平等に区割りした各戸を配置した。
そして、この敷地に5間×2間半の家を南向きに建てたのである。
各宅地の裏手は10間の幅で自家用の畑として開墾していったという。
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鎌原神社から街道方面を眺めると10間(およそ18m)間口の畑が今もうかがえます。
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そして畑には220年たった今も除ききれないたくさんの石ころ、天明の土石なだれの遺物です。
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復興はとてつもなく大変であったことがうかがわれます。
明治にはいるまで村の家屋、人口の増加が記録されてないそうです。
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by hanaha09 | 2011-10-25 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)
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