ちょっと無理をいって鎌原村の歴史ガイド研修講座に紛れ込ませていただきました。
今まで何回も散策したことがありましたが今日は再発見の連続でした。
ハイライトは鎌原神社境内にある「郷蔵」。
天明3年の浅間やけのせいかその後は飢饉が続いた。
領主たちは農民を保護するために「備荒貯穀」の制度を施行した。
収穫時期には穀物を供出、貯蔵をしておいた。
これを飢饉・災害時に放出し、困窮した農民を救うものであった。
その貯蔵倉庫が「郷蔵」と呼ばれていた。
ここ鎌原村には天明8年から利用された「郷蔵」が現存する。
当時の建造物が現存するのは県内でも希少なものとなっているそうだ。
今日は特別に蔵の中へ入ることができた。
間口2間、奥行き1間半の小さい蔵なんですが...
蔵の中はちょっとひんやり、驚くことにじめじめしてない、乾燥してるんです。
穀物の長期貯蔵にはぴったり、という感じ。
木造の床、壁、屋根に土壁を外から塗った。
土壁は何重にも塗り重ねられている、中に入れ込む藁の切り方、量が少しずつ違う。
荒縄が鉄筋と同じように塗りこめられている。
団子状にした赤土を投げつけて板壁に十分になじませるそうだ。
藁は年月をかけて十分に枯れたものを使わなければならないそうだ。
板壁にはくさびが打たれ200余年の年月にも土壁がくずれないようになっている。
蔵の天井にも土壁、その上にかやぶきの屋根が乗っかる。
味噌蔵と同じ構造、風の通過で熱がこもらない、山から降りて来る強風にも屋根が飛ばされることもない。
当時の知恵が満載、驚くばかりです。
天明8年といえば鎌原村を埋めつくした土石なだれからわずか5年、作物もわずかな収穫のみではなかったかと思われる。
村人たちはここに危急の際として一戸当たり稗3升を蓄えたそうだ。
200年を経た今も畑に残る火山礫を見れば宝石にも値する収穫であったに違いない。
ついでにこんなこともあった。
1980年ころと思われます。
フーテンの寅さん25作目の冒頭シーン、この「郷蔵」がロケ地でもありました。