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あるちゅはいま日記

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ポンペイ第二話

第一話からずいぶん時間がたってしまいました。
ポンペイの歴史は日本の戦国時代のようにややこしい。
おまけにカタカナの地名、国名、人名が次から次へと出てくるので頭の中は混乱、わけがわからなくなる。
ということで、この辺はざっと、ということで。

イタリア半島の南にあるポンペイは紀元前800年前ころ交易の拠点として街が作られた。
日本では縄文時代。
紀元前525年にはギリシャに支配された。
その後山岳民族、その他との戦乱を経て紀元前310年には古代ローマ帝国の殖民都市となった。
東西1km、南北に800mの街は城砦で囲まれ、貿易港として、農業、漁業、商業地として賑わいを見せていた。
また、風光明媚気候温暖な土地柄、ローマ人たちの別荘地ともなっていた。
そして紀元79年8月24日正午過ぎすぐ北方にあるベスビオ山が突如火を噴き上げた。
松の樹の姿格好をした噴煙が高く舞い上がり見る間に空を暗くしていった。
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それまでポンペイ市民のほとんどはベスビオ山が恐ろしい火の山ということなど知る由もなかった。
ニンフたちが戯れる平和な、魅惑的な緑の山としてしか映らなかったのだ。
夜になると絶え間なく降り続いた火山灰、火山礫(軽石)が2mにも達し家々の屋根を壊し始めた。
ただならぬ様相に住民たちは金銀宝石、財産、一切合財を身につけ港へと逃げ出した。
そのころには海は荒れ、地震による津波で足止めを余儀無くされた。
次の日の明け方8時前、火口より最大の火砕流が流れ下ってきた。
時速100kmといわれる火山灰、火山ガスを含んだサージ(熱雲)がポンペイの街々、住民たちに襲いかかった。
2000年にわたり火山灰の下にすべてが眠ることとなってしまった。
そして、今人型としてよみがえることになった、一瞬の出来事がそのままに発掘された。
奴隷に守られるように固まった主人、鎖につながれたままままの飼い犬、パン屋には焼きたてのパンがそのまんま。
ポンペイ市民2万人の内1割ほどが犠牲になったことになっている。
しかし、生き延びた人々がどこに逃れたのか、どうなったのか記録はない。
裕福な人々は自慢の家屋敷が安全だと信じ逃げ出すことはなかったようだ。
ほとんどの市民が犠牲になったのではという説もある。
ポンペイの街は二度とよみがえることはなかった。

日本では天明3年(1783)に浅間山が爆発を起こした。
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噴火のクライマックスとして8月5日の午前10時過ぎ灼熱の溶岩を含んだ時速100kmを超えるといわれる大土石なだれが鎌原村を襲った。
村人たちは引き続く浅間の噴火にもかかわらず朝ごはんを済ませくつろいでいた。
土石流を目のあたりにして、あるものは下流をめがけて一目散に逃げていった。
土石なだれの勢いには勝てず村人のほとんどが飲み込まれて犠牲になった。
助かったのは小高い丘にあった観音堂へ逃げ込んだ93名だけ。
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観音堂に通じる50段の石段の途中で発掘された女性二人。
生死を分けた石段の数は30数段、背負われたと見られる女性の頭には綿入れの帽子であろう綿花が確認された。
きっと空から振ってくる軽石を防ぐためにかぶせてあげたに違いない。
この二人の絆が思い浮かべられます。
まさに日本のポンペイ。
ポンペイとの大きな違いは鎌原村ではあちらこちらの援助で村の復興がなされたこと。
幾多の困難を踏まえ今、豊穣の土地によみがえっています。
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by hanaha09 | 2011-10-23 09:00 | 田舎暮らし | Comments(0)
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