今朝目が覚めると雪、なごり雪。
♪♪いま春が来て君~はきれいになった~♪♪
この歌が爆発的にはやったのが1975年。
高度成長期を謳歌していたその時代、嬬恋村では...
朝鮮戦争勃発で湧き上がった黄色のダイヤ(硫黄)ブームが去り、いくつかの硫黄鉱山が次から次へと閉ざされていった。
山の中の鉱山は教育、医療、文化、行政の機能を持ったミニ王国、閉山によりひとつのコミュニティが地図上から消されてゆくことになる。
嬬恋村にあった4大硫黄鉱山のひとつ「帝国硫黄株式会社吾妻鉱山」跡を尋ねました。
嬬恋村三原より万座ハイウエイを北上することおよそ10km、愛妻の鐘の嬬恋牧場をちょっと行った先にありました。
ちなみに碑にある栗原正氏は元帝国硫黄株式会社の社長さん。
吾妻鉱山の歴史は明治43年にさかのぼる。
佐藤右膳、黒岩周作両氏によって発見された。
両氏は炭焼きを業としていたということだが、別の記載には嬬恋村鳴尾の修験道のメッカでもあった熊野神社の神官とある。
威厳ある名前からは後者が正しいように思える、名も体を現すということ。
その後大正3年に群馬硫黄株式会社が設立され本格的な採掘が開始されたが業績は振るわず間をおかずに吾妻硫黄株式会社に引き継がれた。
昭和9年には焼取釜を導入した乾式精錬所が稼動、一山越えた草軽電鉄の専用貨物駅までの策道も完成し生産は軌道に乗った。
昭和に入り本邦第4位の生産量を誇るまでになったが日中戦争の影響もあり経営は困難をきたし昭和15年東洋レーヨン株式会社に買収され帝国硫黄株式会社吾妻鉱山となった。
硫黄生産状況はそう思わしくも無かったがこの間には電燈が引かれ、吾妻小学校も開校、山の中の鉱山集落が完成していった。
そして、戦後朝鮮戦争の勃発により硫黄需要の爆発的増加、政府統制品からの撤廃もあり黄色のダイヤ騒動に突き進んでいった。
昭和28年には過熱蒸気を用いた湿式精錬も導入され低品位鉱もくまなく利用されるようになった。
最盛期の硫黄生産量は年間3万トン、小学校児童の作文には精錬所から出る「臭い煙」が絶えることがなかったと書かれています。
昭和35年には集落の世帯数は292戸、人口は1,318名を越えたそうだ。
しかし、重油脱硫からの硫黄回収(東レ自社工場での脱硫設備も稼動した)が進むと共に硫黄採掘は廃れ昭和46年、吾妻鉱山は閉山、その歴史を閉じた。
跡地を進むとすぐ左手側に広場が広がっています。
ここに精錬所があった、古い地図には製錬堝と記されている。
精錬所横には鉱石搬入、製品搬出と思われる索道が行きかっていたとされる、入り口右側に残る建屋にはストーブの煙突跡、中には碍子で出来た電気コンセント、工具置き場などが見られた。
おそらく精錬労働者の待機事務所兼修繕場であろうか。
ずっとゆくと白樺林の中に巨大な建物が残されている。
吾妻小、中学校体育館(窓が木枠ですね)、石積みの立派な門が残されているがもう名前は無い。
昭和30年には小学校6学級、中学生56名の学童および生徒数。
これだけの体育館があってもおかしくない、ただこの山の学校に赴任希望する先生は居らず所定の教職員数がそろったのは2学期も終わる年末だったとのこと。
体育館の裏側の平坦地にはなにやら建物の土台らしき跡が。
昔の地図には何も出てません、想像ですけど教員住宅だったかも分かりません。
山の中の学校に赴任された先生方、5000坪を越す学校敷地と大自然の中で子供たちと生き生きと和やかに過ごしたと元の在校児童が証言してます。
けれども、真っ暗で物音ひとつ無い夜中には酒でも飲まなきゃやってられない、こんなことだったかも分かりません。
古い酒瓶が数本埋まっていました。
どんどん沢の方向に下りてゆくと元嬬恋村水道水源地がありました。
貯水槽、ポンプと思われる設備がありますがすでに電線は途中で切られており廃墟。
ここはまさに佐藤、黒岩両氏が硫黄鉱脈のしるしである硫黄の花を見つけた松尾沢の合流点です。
水は薄いエメラルドグリーン色、石津鉱山で見かけた廃鉱から出てくる鉱泉と同じです。
帰り道では精錬所反対側のズリ山に遭遇しました。
鉱宰に混ざった製品硫黄、耐火煉瓦、廃材、湿式精錬の際に使ったとも思われる陶器の破片...
無造作に捨てられた公害物質、40年近くたっても以前の豊かな森は帰ってきてません。
これからもまだまだ悩まされ続けることでしょう。
自然を侮ったこんな足跡をこれ以上後世に残さ無いように心がけなければいきません。
山の向こう側には鉱山集落の居住の跡が残されているようです。
雪解けを待ってぜひ、先人たちの想いに触れてみたいと思います。