人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

あるちゅはいま日記

hanaha09.exblog.jp

鎌原(かんばら)城址

天仁元年(1108年)にも浅間山は大噴火を起こしていた。
浅間の焼け石と呼ばれる黒っぽい火砕流は浅間南麓、北麓を広く襲った、これが追分火砕流。
一人の修験者が嬬恋村にやってきた。
清和天皇の子、貞元親王の玄孫(やしゃご)海野幸房であった、信州で勢力を誇った海野一族の跡取りでもあった。
彼は続く戦争に嫌気がさし、修験者となって火砕流で壊滅した嬬恋村の地に立ったのである。
幸房は下屋氏と姓を変え、刀を捨てて修行を実践しながらの復興、開拓に汗したのであった。
見事に再生させた土地はそれぞれ分割して分家に分け与えた、いわば今流行の地方分権ですね。
その同じ海野一族、幸房の孫にあたる幸兼という人物がいた。
この幸兼が嬬恋村吾妻川南岸、鎌原に居を構え鎌原氏の祖となった。
下屋氏の武器無き平和国家は外敵のカッコウの餌食になり、これを武器でもって対抗しようとしたのが鎌原氏。
そのうち力をつけてきた鎌原氏は一族の下屋氏領地を掠め取り、ますます勢力を誇示するようになった。
応永4年(1397)鎌原城が築城され、その後幾多の変遷をへて元和元年(1615)の“一国一城令”によって破却されるまでの二百十数年、武田信玄の吾妻地方侵攻の拠点として重視されてきた。

有名な鎌原観音堂から西へ谷をわたったところの鎌原城郭跡は火砕流が吾妻川に流れ込む台地。
南北に400メートル、総面積3.6ヘクタールの広大な敷地であったと見られている。
いまはトラクターでならされキャベツ畑。
鎌原(かんばら)城址_b0126549_23162248.jpg

唯一遺構と思われる本丸跡の間の空堀跡。
鎌原(かんばら)城址_b0126549_232055.jpg

本丸跡と見られる先には領地を一望に見渡す自然の砦。
鎌原(かんばら)城址_b0126549_23233015.jpg

そして三の丸跡には鎌原氏の子孫がたてたといわれる記念碑と墓標。
鎌原(かんばら)城址_b0126549_23264965.jpg

後に沼田真田藩の家老となった鎌原縫殿重継の『言上書』には「私の先祖は、三原荘(今の嬬恋村三原)を支配し、頼朝の時には鎌倉に勤め、その後は上杉氏の武士となり、次いで信玄に仕え、武田氏滅亡後は、徳川幕府に属し、代々沼田の真田氏に仕えた。」と記されている。
この鎌原氏、下屋氏を嬬恋村の始とする地元民にはあんまり人気が無いみたい。
下屋氏の武器無き平和国家を踏みにじり、一族は上杉勢にもかかわらず武田-真田側につき、一族との間で争いを繰り返した、と。
昭和40年(1970)、この年になってやっと鎌原氏一族の記念碑と墓標が出来た。
碑にある真田の六文銭家紋と「霊城」の文字、なんとなくの恨めしさがにじみ出てきてるみたいですね。
帰り道には嬬恋村の歴史を翻弄する浅間山、悠然とした姿を見せてました。
鎌原(かんばら)城址_b0126549_024830.jpg

by hanaha09 | 2011-04-06 00:25 | 田舎暮らし | Comments(0)
<< 光の道がやってきた 赤壁御殿つづき >>