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あるちゅはいま日記

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赤壁御殿

佐久市岩村田から東へ6kmほど行くと佐久市志賀中宿区がある、以前は北佐久郡志賀村。
小さな集落ですが格式ある旧家が立ち並んでいます。
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昔々この辺には大きな湖があって魚を採っていた?
福岡市志賀島から漁民が移住してきて「志賀」と名づけたとか。
こんな山の中まで玄界灘の漁師がやって来るとは、これはちょっと苦しい...
この集落の中心に「赤壁御殿」と呼ばれる400年続く豪農「神津家」が残されています。
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何処かスペインにでもやってきたような垢抜けた感じですね。
周囲に作られた赤壁は米蔵、これを一揆からの防護の砦として中には障子で区切られた部屋が32室の巨大居宅、まるでお城です。
毎日すべての雨戸を開け閉めするのは面倒くさい、開けっ放しであったとか。ふーん。
街道からお屋敷の米蔵まで続く石畳の両側に磨り減った跡が残っています。
年貢米を運ぶ何台もの荷車のわだちの跡ということだそうです。
左手に母屋から張り出している部分は元禄15年(1702)の建築とされており、柱にはところどころに嵌め込みの修理をほどこされた跡があるそうです。
天明4年(1784)、上州磯辺宿から発生した米蔵打ちこわしの天明騒動、紛れも無く暴徒たちに襲撃を受けた証だそうだ。
神津一族の神津藤平は長野電鉄を創立した初代社長。
村の入り口に立つ藤平の銅像、報徳社設立による村興しをたたえた二宮尊徳像です。
赤壁御殿_b0126549_17215728.jpg

この藤平はリゾート地としての志賀高原の開発を手がけ、世界的にも有数の観光地としての地位をかためた。
神津藤平の出身地「志賀村」から「志賀高原」と名づけたとの説が一般的であるが、これもどうもあやしい。
大正時代の文書に既に志賀高原との記述があるらしい、と子孫の一人が明かしています。
神津藤平の娘婿が衆議院議員羽田武嗣郎、その子が民主党の元首相羽田孜、藤平はおじいちゃんにあたります。
そして「赤壁御殿」を12歳で継いだ12代目神津猛は長野で最大といわれた信州銀行の経営に乗り出した、しかし不運にも昭和2年(1927)の昭和大恐慌に遭遇、あえなく倒産。
家屋敷以外の財産すべてを投資家の賠償にあて、東京に赴いてしまった。
神津猛は持ち前の探究心から多才で特に考古学、禅の修業には趣味を越えるものを持っていたそうだ。
小諸にて初めての小説「破戒」を自費出版しようとした知己の島崎藤村の生活費をも丸ごと援助していたのである。
当時の金で1千円あまり、今のお金で800万円にも上る資金を差し出した。
「破戒」の冒頭にも神津猛への謝意
「この書の世に出づるにいたりたるは、函館にある秦慶治氏、及び信濃にある神津猛氏のたまものなり。労作終るの日にあたりて、このものがたりを二人の恩人のまへにさゝぐ。」
と記されています。
志賀村の「赤壁御殿」を訪ねたのは、藤村だけに限らず、田山花袋、室生犀星、有島生馬、小山内薫、柳田国男、高浜虚子、三宅克己、丸山晩霞等々日本の文化人総ナメであります。

志賀村からもう少し東へ進み、県境の峠を越えた下仁田町にはジャージー牛乳で有名な神津牧場があります。
明治20年、日本で始めてのこの西洋式牧場を開設したのも志賀村の神津邦太郎。
音楽芸能界で活躍する神津善行、メイコ夫妻もこの神津一族、本名は一族にふさわしそうな充吉、ついでに婦人は五月(May)さんとか。
まさに華麗なる一族でございます。
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わらぶきの豪壮な母屋が見えるこの旧家、表札はやはり神津家。

我が家の家系図なんて見たことも聞いたこともありませーん。
by hanaha09 | 2011-04-03 22:02 | 田舎暮らし | Comments(0)
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