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あるちゅはいま日記

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平核無柿

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ひらたねかき、平=形が平たくて四角形、核=種が、無=ない、柿=柿だ。
信州三水で買ってきた。
干し柿にした、ちなみに青い籠の中は干しリンゴ。
この平核無柿、新潟県原産で、現在でも新津市古田地区に樹齢320年の原木が残っているのだそうだ。
種なし柿は、受粉しなくても実がなる。
受精しても途中で種(胚)の発育が停止する。
そういえば、種ではないが種のような平べったいのが入っていることがある。
気の毒な柿だ、子孫を残すことができないにもかかわらず一生懸命結実する。
平核無柿は渋柿だが、糖度は甘柿より高い。
甘がきの「富有柿」は種子形成力が強い、受粉することで実がつき、種子ができやすい。
と、思うと種の無い甘柿、富有柿が世界で初めて誕生したのだそうだ。
その名は「秋王」、「富有柿」に「太秋」の花粉を交配し、得られた不完全種子を胚培養することで育成したものだそうだ。
お値段の相場は1kgが10万円とか、公益社団法人農林水産・食品技術振興協会によれば、栽培は許諾契約を結んだ福岡県内生産者に限る、現在は市販されていない、とある。
気の毒な子無しの平核無柿、干し柿が最高においしい。
「和生菓子の甘さは干し柿をもって最上とする」、実に羊羹とほぼ同じ甘さになる。
和菓子の甘さの基準、最もおいしい甘さなのだ。
年末の干し柿完成が楽しみだ。















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# by hanaha09 | 2017-11-20 21:03 | 田舎暮らし | Comments(0)

高井鴻山と葛飾北斎

なんで晩年の北斎の肉筆画が小布施に現存するのか?
今日はちょっと補足をしておこう。
高井鴻山は小布施村の豪農商、高井家十代目の四男として誕生。
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高井家は当時、綿糸や菜種油の生産を手掛けた小布施商人の一人で、その商売は信州を手始めに江戸、京阪北陸、瀬戸内まで商圏を広げていた。
天明の飢饉の際には自ら倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当てた、という。
その功績により幕府より高井家の苗字及び帯刀を許された一家だ。
文政3年(1820年)、鴻山15歳のとき京都へ遊学、絵画、浮世絵、国学、儒学、漢詩を学んだ。
結婚後には江戸へ移住、朱子学を学び蘭学にも研鑽を積んだ。
天保11年(1840年)、父熊太郎が病死し鴻山が当主となったが、経営・理財は全く不得手であった。
勉学の傍ら、花柳界で金持ちよ御曹司よと乱痴気騒ぎをし、自ら「放蕩宗」と称した。
このころに、北斎が出入りをしていた江戸日本橋の呉服問屋、十八屋でこの二人が遭遇したようだ、十八屋の亭主も小布施出身の豪商だった。
そして、北斎83歳のとき小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れた。
このとき鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に碧漪軒というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門した。
北斎は「旦那様」、鴻山は「先生」と互いに呼び合う間柄となっていった。
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かくして四度にわたり晩年の北斎は小布施を訪問、鴻山の依頼で高井家の菩提寺である岩松院の天井画「八方睨み鳳凰図」に取り掛かることになるのだ。
この天井画に要した絵の具代が150両、天井の素材は桐材、貼られた金箔は4,400枚。
とてつもない費用は高井家の金子から出て行ったものに間違いない。
明治になり高井家は破産、鴻山は明治16年(1883年)78歳で死去した。
なぜか、墓所は小布施の祥雲寺にあるそうだ。






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# by hanaha09 | 2017-11-19 19:02 | 田舎暮らし | Comments(0)

八方睨み鳳凰図

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前々から寄ってみたかった小布施の岩松院。
本堂天井に描かれた21畳の大きさの「八方睨み鳳凰図」、写真撮影禁止でパンフレットを写真で写したものだ。
どうも色合いはほど遠い。
鳳凰の白目、翅の縁取りは真っ白、橙色の翅はもっと鮮やかな橙色、翅の青色は深みのある藍色...
描かれたのは160年以上たつ1848年、塗り替えは一度も行っていないというそのまんま。
朱、鉛丹、石黄、岩緑青、花紺青、藍、そしてベロ藍(ドイツベルリンで生まれたベルレンブラウ、北斎はこのベロ藍と日本の藍色とで透き通った空と水を描いた)。
これらの顔料を膠水で溶いて彩色した。
鳳凰の周りには胡粉、下地に白土を塗り重ね金粉を蒔いたもの、きらびやかに光る。
自然光の中に浮かぶ上がる鮮やかな肉筆画だ。
作者と言われる葛飾北斎は当時89歳、4度目の小布施、スポンサーでもあり弟子でもある小布施高井鴻山家滞在時に1年を費やした渾身の一作で、翌年江戸に戻り亡くなったと言われている。
しかし、北斎がこの年に江戸にいたという事実、89歳の老体をもって小布施を訪れ直接描いたとするには無理があるのでは?
そこで出て来るのが、娘の葛飾応為説。
この豪快なタッチ、眼を欺くような色使い、応為の作風とよく似ている、彩色・仕上げを担当したのでは?
八方睨みの図からは「画狂老人卍」にふさわしい画の執念が感じられる。
そして、北斎の死と共に「仙人になる」と言い残し、消息を絶ってしまった応為。
北斎は、
「人魂で行く気散(きさん)じや 夏野原」
(人魂になって、夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか)
との辞世の句を残している。








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# by hanaha09 | 2017-11-18 18:34 | 田舎暮らし | Comments(0)

ボージョレーヌーボー

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昨日が日本の解禁日だったそうだ。
残念ながら山の中まで新酒は届かない。
で、ボージョレーヌーボーは単なる新酒ではないのだ。
普通の葡萄酒とは醸造方法が違う。
「マセラシオン・カルボニック」という醸造方法で、日本語に訳すと「炭酸ガス浸潤法」という急速発酵法。
収穫した葡萄をつぶさずにタンクの上からどんどん入れていく。
葡萄の重さでタンクの下の葡萄はつぶされ発酵していく。
その時発生する炭酸ガスがタンクの中に充満する(最近では強制的に炭酸ガスやら窒素ガスを吹き込んだりするらしい)。
その中ではつぶれていないぶどうの細胞内部で酵素の働きによってリンゴ酸が分解され、アルコール、アミノ酸、コハク酸などが生成され、ぶどうの皮からも成分が浸出する。
この方法で造ったワインはタンニンが少ないわりには色が濃く、渋みや苦味が通常のワインより少なくなる。
リンゴ酸も分解されるので、味わいもまろやかになり、炭酸ガスによって酸化が防止されるのでワインがフレッシュに仕上がるのだそうだ。
そもそも、大量にワインを買い付ける業者にとって、このヌーボーは“試飲酒”。
その年のワインをどのくらい購入するかの指標になるのだ。
このヌーボー、取って置いておいても熟成することは無い、2-3か月もたてば料理酒にしか使い道がない。
この季節、フランスの料理屋に行けば常に「ボジョレーヌーボー、シルブープレ!」
とにかく値段が安いのでぼったくられることはない。
ワイン通でもなんでもない素人日本人の安全牌の選択肢なのだ。











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# by hanaha09 | 2017-11-17 17:47 | 田舎暮らし | Comments(0)

初雪が降った

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「浅間山に3回雪が降ると里にも雪が降るだんべ。」
と、村では言われている。
一昨日から昨日に掛けて浅間山が白くなった。
ちょうど、埼玉から嬬恋村資料館にやってきた団体さんに話した。
「今日は浅間山で今冬3度目の雪化粧なんですよね、昔からの言い伝えでもうそろそろ里にも雪が降る頃なんですよ。」
今朝はその通りの初雪、庭の景色がうっすらと白。
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そして、出かけようとした車の窓も雪。
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冬がやってきた。





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# by hanaha09 | 2017-11-16 16:54 | 田舎暮らし | Comments(0)

「七五三」が凄い

今日11月15日は「七五三」の日。
最近の「七五三」がすごいことになってるのだそうだ。
子供には着物もドレスも着せたい、写真撮影、そして神社への参拝、家族の食事会と盛りだくさんのスケジュールとなる。
中には、ホテルなどで記念撮影や食事を楽しむ“七五三披露宴”も、全国で急増しているのだそうだ。
司会者を立て、入場からお祝いの言葉、乾杯、余興、謝辞、閉会が一般的。
お色直しやケーキ入刀、キャンドルサービス、余興、産まれてからの写真をスライドで紹介なども。
七五三披露宴に呼ばれるとご祝儀も必要。
「引き出物」なんかもちゃんとあり、もう完全に結婚披露宴状態とか。
江戸時代中頃から民間で広まったと言われるこの行事、3つの行事である「髪置(髪を伸ばし始める)の儀」「袴(初めて袴をつける)儀」「帯解(帯を使い始める)の儀」の事。
当時は乳幼児が成人するまでの生存率が低く、成人する子どもは幸運とされていた。
子供の無事と感謝を祈る行事だ。
着物を着て、有名神社にお参りをする風習は江戸の呉服屋と神社が仕掛けた営業作戦が始まりのようだ。
現代は写真屋と着物レンタル屋とホテルの結託したもの?




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# by hanaha09 | 2017-11-15 18:30 | 田舎暮らし | Comments(0)

ジャパニング

漆器(しっき)とは、漆(うるし)の木から採取した樹液を天然樹脂塗料(主成分はウルシオール)として、木の素地に塗り重ねて作る美しい工芸品。
陶磁器を“china”と呼ぶように漆器は“japan”と呼ばれた。
福井県(鳥浜貝塚)で出土した漆の枝は、放射性炭素年代測定法による分析の結果、世界最古の約 12600年前のものであると確認された。
漆器に絵柄を手書きし、乾かないうちに金銀を蒔いて定着させる蒔絵技法も登場した。
大航海時代、あちこちに出かけて行ったスペイン人やポルトガル人たちが辿りついた日本で、それまで見たこともない漆、黒く光る「japan」に出会った。
遠く東洋からもたらされた贅沢な蒔絵は、富と権力の象徴であったことから、フランス王妃マリー・アントワネツトら王侯貴族は競って蒔絵を求めたのだそうだ。
昔々、初めての海外渡航の際にもらった煙草好きの義父に選別の土産として買ったのは、これ。
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漆塗りのライター、結構高かったのだが使ってくれてか捨てられたかよくわからない。
西洋ではその内、日本からの高価な輸入漆器にかわり、西洋内で模造品の漆器を造ることが流行した。
西洋では漆にような黒を他のもので再現しようと頑張った、漆ほどではないが光沢のある黒を出す技法を見つけた。
その技法を「ジャパニング」と呼んだ。
漆黒のグランドピアノ、かつて、ピアノは木目調仕上げが普通だった。
ピアノが黒く塗られるようになったのもジャパニング、ルーツは日本の漆器だったのだ。
昔のミシンの黒色も同じジャパニング。
漆は何しろ長持ちする、10年ほど前にこれも選別にいただいた津軽塗の箸。
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毎日毎日、三度三度使ってもいまだ光り続けている。
11月は漆愛用月間、昨日の13日は漆職人さんたちに酒や菓子などを配り労をねぎらう日でなのだそうだ。













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# by hanaha09 | 2017-11-14 21:54 | 田舎暮らし | Comments(0)

今日の浅間山

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今日の午後4時頃の浅間山だ。
火口からの煙が下へ下へとたなびいている。
結構珍しい。
気温は6℃、おそらく山頂付近は積雪が煮えるので0℃を下回る温度だろう。
風速は地上で1m/s、山頂は良くわからないがほぼ一緒、煙があんまり動かない。
火山ガスの主成分は一般的に水蒸気(H2O)、90%以上含まれている。
それ以外の化学組成はガスの温度によって異なり、高温のガスには HF, HCl, SO2, H2, CO など が多く含まれ、低温のガスでは H2S, CO2, N2 などが主成分となる。
火山ガスに含まれ る成分のうち、HF, HCl, SO2, H2S, CO2, CO が毒性だ。
浅間山においては SO2が多い。
11月7日の測定では平均値500t/d、ちなみに10月12日には平均値2,000t/dを記録している。
これらの火山ガスは空気より重く低い場所に溜まりやすいため、窪地や谷などに淀 んでいることがある。
特に無風・曇天のときはガスが拡散しにくく地表近くが高濃度 になりやすい。
六里ヶ原の休憩所あたりの道路を通過する際にオナラのような臭いがする時がある。
危険信号だ。






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# by hanaha09 | 2017-11-13 17:46 | 田舎暮らし | Comments(0)

三脱の江戸しぐさ

「傘かしげ」、「こぶし浮かせ」などと呼ばれる江戸しぐさ。
江戸時代の人々が、日常身につけていた動作や表情のことをいう。
「傘かしげ」とは、雨の日に狭い道で行き会ったとき両方が傘をちょっと外側へかたむけ合うことで、お互いに濡れもせず、衝突もしない。
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「こぶし浮かせ」とは、渡し舟など乗りあったとき、新来の客に先客二、三人がこぶしひとつずつ腰を浮かせて詰め、新客分の席ができる。
新来の客はちょっとあいさつしながら席に着く。
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至極当たり前のしぐさであった。
この時代、俳諧や朝顔作り、菊作り、頼母子講、その他多くの寄り合いがあった。
そんな時「三脱」といって、話題にしてはならない三つのことが暗黙の裡にあった。
お互いの年齢や生国、次に相手の職業や地位、三つ目は相手の家族のこと。
こんな席には武士も町人もいる、豪商も入れば小商人もいる。
身分階層、その他が明らかになれば、自ずと忖度することになってしまう。
そういったことから逃れるために、この様な作法が自然と出来ていった。
雑多、過密な江戸の社会をもめごとなくやり過ごす術であったのだ。
現在の社会はなかなかこうはいかない。
二百六十年間の江戸の住民たちが日常習慣として身につけていた高度のマナ-でありエチケット、一体今はどこへ行ってしまったのだろう。






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# by hanaha09 | 2017-11-12 22:26 | 田舎暮らし | Comments(0)

御代田の真楽寺

御代田の真楽寺を訪れた。
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真言宗智山派山号は浅間山。
第31代天皇である用明天皇は病弱で、子である聖徳太子の勧めもあり、仏法に深く帰依されていた。
その時、浅間山が突如大噴火した。(記録にはない、日本書紀に初めての浅間山噴火が記録されているのが天武天皇14年(685年))。
用明天皇は栄曇という僧を現地に派遣され、浅間山の鎮火祈願と御山安穏と人民救済のための深い祈りを捧げた。
おかげで、火山活動も終息したといわれている。
用明天皇元年(586年)が開山の年と言われている。
また、浅間山別当勅願寺としても知られる。
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聖徳太子源頼朝松尾芭蕉なども参詣したという名刹。
源頼朝は文治5年(1189)の浅間巻狩りの際、当寺を訪れ観音堂を寄進した。
"頼朝厄除観音"とも呼ばれている。
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そして、頼朝が梅の杖を地面に突き刺すと、根付いたとされる頼朝公の逆さ梅。
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江戸時代の安永年間の頃の真楽寺の憲浄上人は幕府から十万石の格式を授与され、小諸城主と対等に振る舞ったという。
すごいお寺だ。
芭蕉句碑は天保14年(1843)、芭蕉百五十回忌に小林葛古により建立されたもの。
「むすぶよりはや歯にしみる清水かな」
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残念ながら浅間山の伏流水が湧き出る山門の入口横の大沼池は行かなかった。
この湧水は近辺六ケ村に分水され灌漑用水として今も人々の暮らしをささえている。
伝わるご詠歌には
「浅間山なにおそろしと思うなよ いつも仏に大沼の里」
とある。







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# by hanaha09 | 2017-11-11 19:47 | 田舎暮らし | Comments(0)